2009年9月24日木曜日

Time is money

“Time is money”これは、私が我が家のドライバーに伝えた言葉である。マラウイに赴任したての頃、私が外出しない日のドライバーは、1日中寝ているか、ガードマンらとおしゃべりをして過ごし、夕方夫の職場に車を届けるという生活をしていた。私はこれがどうも慣れなかった。日本の友人には「待つのがドライバーの仕事なんだから、待たせておけばいいじゃない」といわれたのだが、だって時間がもったいないじゃない?

ドライバーを雇わない選択肢も考えてみた。私自身、運転できるので毎朝夫を職場に送ることは問題ない。しかし帰りは、その日の仕事状況により帰宅時間が異なるので、何時に迎えにいけばいいのかわからない状態で、毎晩待機態勢で過ごすのは私のストレスになるだろう。しかも夜の運転はカージャックなどに襲われる心配もあるので女性の一人運転は避けた方がよい。そうなると、やっぱり私が昼間に使った車を夕方にオフィスへ届けてくれるドライバーは必要なのである。

ということで、私はドライバーに「この待っている時間を利用して、家の中の仕事も手伝ってもらえるなら、給料とは別にお金を払うけど、どうする?」と聞くようにしている。そしてタイトルに示した言葉を説明するのである。これまで我が家のドライバーは何人か入れ替わったが、皆に家の中の仕事をすることを受け入れてもらっている。

具体的に何をしてもらうかというと、主に単純な作業だけど時間が掛かる“豆腐”作りを依頼している。しかもそれを近所の日本人に売ることで、利益がドライバーのお小遣いとなるようにした。1度に作れる豆腐は2丁分、それを1丁MK150(約100円)で販売し、50%が材料費、残りの50%が彼のお小遣いという内訳である。

この活動は3者にとってとても良いものとなった。まず豆腐を販売する対象を主に一人暮らしの日本人とし、安くてヘルシーな豆腐を提供することで、少しでも健康面に気をつけていただけたらと考えた。首都にある高級ストアー“foodworths”では、真空パックの絹ごし豆腐が一丁MK985(約750円)もするのである。私はこれを見て、賞味期限が切れる前に購入する人が現れるのだろうかと不思議に思ってしまう。次にドライバーは時間を有効利用して給料以外の所得が得られる。最後に、私は家で作業をしている間に、寝ているだけのドライバーにストレスを感じないで済む。という具合である。

そして、最近の急激な温度変化で少し風邪っぴきの私は、今日は家で作業をすることにし、台所ではドライバーが豆腐作りをしているのである。

2009年9月20日日曜日

国際映画祭in Malawi

映画館のないリロングェで国際映画祭が開催された。これは行くしかないでしょ\(^o^)/とプログラムをみながら夫と相談。この映画祭は各国大使館が提供する映画をCrossroads Hotelの講演会場で上映するというもので、日本はみんなのアイドル“ドラえもん”であった(*^。^*)

私たちは、フランスとスペインを悩んだ末、15時30分開催のフランス映画に決めた。内容はプログラムによると、第一次世界大戦中に、戦場に向かった夫から別れの手紙をもらった女性が、男性に扮して彼のもとに向かうというもの。おもしろそうでしょ!?

ということで、10分ほど前につき、コーラを買って劇場で始まるのを楽しみに待っていた。すると15時30分過ぎ、スタッフが来て「今から上映する映画のプログラムの内容は間違いで、○○○○という内容です。ではお楽しみください♪」といって去ろうとた。慌てて観客の一人が「タイトルはなんなんだ?」といったところ、スタッフからは「タイトルはそのままです」という回答。

私たちは最初に彼らの会話の意味が把握できずにいた。想像もしていなかったことなので、「???」のまま、映画を観始めて5分後、「これ、内容違うよね?」とやっと意味がわかり、会場の外にでた。スタッフにもう一度確認したところ、折角楽しみにしていた映画はやらないとのことなので、交渉の末、17時30分からのスペイン映画に変更した。

というか、チケットを買うときに上映内容が違うことは伝えるべきでしょ!映画館のないマラウイ人には、こういう日本人なら考え付く常識も常識ではないのである(@_@;)

最後に、“14km”という映画はなかなか面白かった。

2009年9月19日土曜日

日本人祭り

本日は、久々に夫とふたりでおでかけです。目的は、家から車で40分ほどのところにあるNRC(Natural Resources College)で、青年海外協力隊(JOCV)の方々が日本人祭りを開催したので、その見学です。

プログラムは、JOCVの活動紹介、原爆について、歌や踊りと盛りだくさんでした。入場無料とあって、マラウイアンの小さな子どもたちがわんさか来ていましたが、彼らには活動紹介や原爆のお話はちょっと難しかったようです。会場を出たり入ったりと繰り返していました。

プログラムの中で一番の盛り上がりを見せたのが、なんと書道です。私の感覚では、書道のデモンストレーションとは静かな中で行なわれるものだったので、その盛り上がりに驚きました。JOCVの方が床に置いた紙に文字を書き、その後皆に見せながら解説をしたのですが、その度に会場のマラウイ人はどよめき、楽しそうに笑い、拍手をしていました。

私が一番印象に残ったのが、マラウイを当て字で“真愛”と表現したことです。“The Warm heart of Africa”と呼ばれているこの国にふさわしい字で、私も「おみごとヽ(^。^)ノ」とおもいっきり拍手をしました。

2009年9月15日火曜日

Millennium Village

NGOのボスと同僚と一緒に、UNDP(国連開発計画)の支援するミレニアム村を訪問した。人口1700人ほどの小さな村ではあるが、この村を支援する目的には、実は大きな国際目標が関係しているのである。

少し難しい話になってしまうが、2000年にニューヨークで開催された国連ミレニアムサミットにおいて、21世紀にあるべき国際社会をめざして「国連ミレニアム宣言」が採択された。それによって、これまでの国際開発目標が統合され、ミレニアム開発目標(MDGs)が掲げられた。MDGsには、大きく8つの目標があるのだが、その全てを達成することを目的に、このミレニアム村は支援を受けているのである。このような村はマラウイ国内だけではなく、エチオピア、ケニア、ウガンダなど多くのアフリカの国々でも実施されている。

日本の国際支援は比較的Human Development(人間開発)の視点が強く、資金提供よりも人材育成を優先しているのだが、国連は、貧困の一番の問題は資金不足であり、資金を提供することで、彼らは豊かになるという考え方が強い。そのためか、9月15日のThe Daily Timesの記事によると、このミレニアム村支援プロジェクトは、一人の村人に対して年間の支援費用をUS$110と定め、村人の負担はその10分の1に留めている(偶然にも訪問日に新聞に記事が掲載されていた!)。

私が訪問した村は、US$11を投資した村人がいろいろな支援を受けていた。また村人投資で共同で行なっているのか、雨季前の終了を目指して学校やメイズを蓄えておく食糧庫、小売店などの共同利用できる建物が建設中であった。最初に説明を受けた「プロジェクト対象地域の選別は、貧しいが貧しくないところ」といった意味が見学をしていてよくわかった。どこを訪問しても、村人や子どもたちが歓迎してくれたのだが、彼らの服はボロボロであったり、電気のない家に住んでいたりする。しかし、水や家畜、家庭菜園など多くのものが各家庭に揃っているのである。

よい手本となるプロジェクトサイトを選んでしまった場合、その手法を普及していくときのその他の地域の環境の違いが、プロジェクトの成功の妨げになるのではないかとどうしても危惧してしまう。しかし、ここではプロジェクトの将来についてはおいて置いて、本日の見学の中で「これはイケる!」と勝手に思ったものを紹介したい。

それは、小屋の中で作る“マッシュルーム(茸類の一種)”である。中をビニールで覆って湿度を保っている藁でできた小屋の中に、おがくずなどがたっぷり入ったビニール袋がつるされていた。そこに菌をいれ、朝夕の2回水をスプレーする。すると写真のような真っ白でりっぱなマッシュルームができあがるのである。これを私たちはキロMK400(約250円)で売っていただいたのだが、一緒に訪問したマラウイ人によれば、首都に行けばキロMK3000で売れるとのことであった。マラウイの主食のメイズがキロMK30といっていたので、労力などを考えると女性の所得向上にはとてもよいアイデアだと思った。

私がグアテマラで住んでいた村は、10ヶ月間も雨季がある地域だったので、できるものならグアテマラの友人にこの手法を伝えたいと思ってしまった。そうして、1kgのマッシュルームをお土産に得た私は、帰路で夕食のメニューを考えるのであった。

2009年9月14日月曜日

オバサン化 or マラウイアン化!?

先日、スポーツジムの会員の期限が過ぎてしまったので、3ヶ月の期間限定ペア会員を申し込みに行った。スタッフに値段を聞いたところ「MK37630(約2万5000円)」と言われたのだが、私は試しに「安くしてもらえる?」と聞いた。すると彼は、「OK、30」と言ってきた。私はてっきり最後の桁のMK30だと思い、「えーそれだけ(―_―)!!」と言ってしまったのだが、スタッフから「違う違う、thirty thousand kwachaだ」と言われた。「(えーそんなにー\(^o^)/)」というのは、心の中で抑えておき、私は「OK」と言いお金を払って無事にジムの会員となったのである。

たった一声でMK7630も値段が下がるなんて、どんな商売なのかと思ってしまうが、そんな経験してしまうと、どこへ行っても取りあえず挨拶代わりに「安くできる?」と聞いてしまうのである。

さて、この行為が癖になってしまい日本で同じことをしたらそれはオバサン化といわれてしまうのだろうか。 んっ!?待てよ。これって、マラウイの子どもたちが挨拶代わりに「give me money」と言ってくるのと同じじゃない。どうやら私はすっかりマラウイに染まってしまったようである。。。

2009年9月13日日曜日

ブログ

梅田望夫著の「ウェブ進化論」を読んだ。電子機器全般に奥手の私にとって、すごい速さで動いているんだろうなとしかキャッチできていなかったITの世界の話が、わかりやすく書かれていてとても面白かった。

そして、今さらながら、辞書代わりにお世話になっている、そして私のブログの場を無料で提供してくれている会社「グーグル(2005年に時価総額が10兆円を越えた)」の2人の創業者が1973年生まれと、私と同年代であることにも驚き、その若さで「世界の情報を自分たちの手でひとつにまとめてしまおう」という発想を抱くことやその行動力に驚いた。

ここでは、難しいことは抜きにして、単純に私が「へぇー(‐。‐)」と思った第4章の「ブログと総表現社会」の著者の考えを紹介する。その前に、ブログとはウェブログ(Weblog=ウェブの記録)を語源とし、日記風に書かれた個人のホームページであるというシンプルな説明があった。そしてもう少し詳しく説明すると、ブログの仕組みは記事に固有のアドレス(URL)がつけられているので、「○○さんのブログのこの記事」とピンポイントに検索や紹介が可能であるとのことである。最初の頃、両親から「ブログってなんなのかよくわからないのだけど」というメールがあったので、こういう説明をしてみればよかったと思ったので載せておく。

私が面白かったのは、日米のブログ文化の違いである。アメリカでは実名でブログを書く人が多く、日本では匿名(ペンネーム)で書く人が多い。かく言う私も日本人であるなと実感したのだが、アメリカ人は自分の考えをオープンにしてなんぼの世界で生きている。彼らは「自己主張」のはっきりした国民であり、ペンネームでそれを主張しては意味がないのである。とてもストレートな人たちだ。

私の友人が以前アメリカの学会に参加したときの感想を私に言ったときのことを思い出した。「アメリカ人は発表者に“とても良かった”と伝えるだけで手をあげるので驚いた」と。日本人である私たちは、学会の口頭発表の後の質疑応答などは、よっぽど自分の専門がその発表と関わっている、もしくは興味がないと手をあげられないものである。

とはいっても、日本も若い世代を中心にオープンカルチャーが根付き始めていると著者も述べているが、私も同感である。今後ブログを通して自分をアピールし、就職につなげていくなんてことが日本でも増えていくのではないだろうか(私の義姉は米国で実践していた)。

2009年9月12日土曜日

反省

今週私がフェニーの家に泊まった日のことである、私は大変な過ちを犯してしまった。午後、彼女の家に着いた私たちは、荷物を置いてローカルマーケットの探索にいった。その後帰宅し、そのまま焚き火の周りでおしゃべりをしていたのだが、途中わからない単語を調べたくて、部屋に辞書を取りに行ったのである。

しかし、私が鞄に入れたと思っていた辞書はそこになかった。一瞬、目の前が暗くなってしまった。私はフェニーの家に着いたときに荷物を取り出した後、気が緩んでしまい鞄に鍵をせずに外出してしまったのである。迷った末、フェニーを部屋に呼んで相談をした。そして、私が家から持ってき忘れた可能性もあるが、皆に聞いてみるといって、フェニーと母親が子どもたち一人ひとりを呼び出して、辞書を知らないかと聞いたのである。

辞書は出てこなかった。私は取りあえず、明日家に帰ればはっきりするだろうと自分を納得させ、その場を楽しむことにした。

そして次の日、朝家に帰ると私の部屋に辞書がきちんと置いてあったのである。そう、そもそも私はフェニーの家に辞書を持っていき忘れていたのだ。自分が子どもたちにしてしまった失礼な行為をどう詫びていいのか、言葉がでてこなかった。フェニーにそのことを伝えると、「あったんだからそれでいいじゃないか、人は忘れることは仕方が無いことだし、それよりもあったことが私は嬉しい、Kauraから友情を切られてしまわないで本当にハッピーだわ。」という言葉が返ってきた。私はその言葉に救われたのである。

私はその日にどうしてもお詫びをしに行きたかったのだが、フェニーやフェニーの母親から「今日は忙しいし、もう何も問題ないんだから家まで来ないで大丈夫だ」と言われて終わってしまった。

そして今朝、大きなシフォンケーキを作って、フェニーの家を訪ねた。フェニーの子どもたちや両親が前回とまったく変わらない歓迎をしてくれた。みな「辞書が見つかってハッピーだね」と私にとても温かい言葉を掛けてくれた。そしてランチまでご馳走になって帰路に着いた。本当に、本当に、彼らの温かさに感謝!

2009年9月11日金曜日

タイルゲーム

アメリカ人の夫を持つ友人から夕食のお誘いがあり、私ともう一人の友人と金曜の夜に訪問した。日本の母から教わったレシピだといっていた唐揚げもカラフルなソースが付き、ミニキャベツやズッキーニなどを取り入れるところは、やはりどことなく日本とアメリカの融合を感じ、素敵な食事であった。私は彼女の大好きな「我が家のお手伝いさん作の豆腐」を手土産にもっていったのだが、彼女はそれを手際よくトーフステーキにしてくれた♪

さて、そんなわけで楽しくおしゃべりをしながら食事を終わろうとしたとき、彼女の夫が「タイルゲームをしよう!」と提案した。私たちは初めて聞くその言葉に「?」だったのだが、彼が箱を取り出し、説明をしてくれたので、とりあえず4人でゲームスタート!そのゲーム(正式な名前は“Carcassonne”といい米国ではポピュラーなゲームらしい)は、一枚一枚裏になっているタイルを順番にめくり、そこに書かれた絵を既に置いてある絵にうまくつなげるもので、その絵には土地、家、道路、城の一部が描かれていて、めくった人がそのオーナーになる権限を持つというもので、自分の所有物を完成させてポイントを稼いでいくゲームである。

少しやってみたところで、私たちはもうハマってしまった♪お互い協力し合ったり、裏切ってしまったりしながら、それぞれが自分のポイントを稼いでいく。毎回、違う展開でいろいろなデザインの町が完成していくのもまた面白さのひとつだ。そんなわけで、気づいたらもう夜中になっていたので、最後に友人の作ってくれたロールケーキのデザートをいただき、解散となった。

2009年9月10日木曜日

Village Stay(^_-)-☆

今回のお泊り先は、私の家から徒歩40分ほどのところにある私の英語の先生、フェニーの家。彼女の仕事帰りに私の家に寄ってもらい、一緒に買い物をしながら彼女の家に向かった。

買い物のために、フェニーに「何人家族だっけ?」と聞いたところ「たくさん」というだけで正確な人数が得られない。これまで何度か彼女の家には遊びに行っているが、人数を数えたことがないので、私もよくわかっていないのである。彼女の家は、敷地内に両親や親戚も住んでいて、お互いが相互扶助で食事の支度をしているため、どこまでを家族と呼ぶのかが定かではない。そのため、お土産として適当にパン2斤、ピーナツバター1瓶、バナナ2房、砂糖と塩を各1kg買って行った。

さて、家に着くと子どもたちが私の到着を待っていたのか、私を見つけて駆け寄ってきてくれた。現地語が話せないので、あいさつまでしか会話が進まないが、歌や踊りを披露してくれた♪以前、ここの家族に日本の友人の結婚式用に歌を歌ってもらったことがあるのだが(最初のブログに掲載!)、子どもたちがそれを覚えていて「ハッピー♪ウエディングデー チンチロー&アニー♪」と歌ってくれた。懐かしさと友人の旦那の名前が変っていたのがおかしくって笑いが止まらなかった(*^。^*)

本日の夕食は私の訪問を歓迎してくれて、貴重な鶏を1羽絞めてくれたのである。外にゴザを敷き、焚き火の周りでそのチキンとシマ、菜っ葉等を有難くいただいた。普段一人で夕食をとるのが当たり前の生活をしている私にとって、火を囲んで大人数で食べる食事は新鮮で心が和み、やっぱり家族揃って食事をするのって心身ともにいいんだろうなぁとあらためて思うのであった。

夜8時半、フェニーの妹が私の髪を結いたいといったので、家の中に入り、TVでニュースをみながらアフリカ風に三つ編みをしてもらった。そして10時半頃、消灯となった。

しかし、消灯後の私はそれまでとは一転、穏やかとはいえなかったのである(@_@;)。なぜなら暗くなったとたんに、私のベッドの周辺で生き物の気配を感じたのである。モスキートネットで保護されているものの、近くにねずみや蚊がいることは確実だ!ねずみが走って土壁が崩れる音やビニールのガサガサという音、本当に寝付くまでは緊張であった(-_-;)。

次の日、フェニーは5時に起きて床掃除などをし、シャワーを浴びた。彼女は本当に働きものである。しかし私は昨日寝付けなかったこともあり、甘えて6時までゆっくりしてしまった。一晩ほんとうにお世話になりましたm(_ _)m

2009年9月8日火曜日

☆Night Worker☆

私がボランティア活動をしている孤児院(マザーテレサの家)には、週1回8時から14時までの6時間のみ滞在している。それ以外の時間帯を子どもたちはどのように過ごしているのか、以前から気になっていたため、今回はシスターにお願いして、Night Workerをやらせてもらうこととなった。

そして月曜の16時半に孤児院へ到着し、お仕事スタート!まずは、大きな子どもたちと“ハグ”をしながら挨拶を交わすと、あっという間に17時半のミルクタイムになった。通常、乳児室の18人の赤ちゃんのお世話は、一人のNight Workerが行なう。本日の担当は”January”という面白い名前のおばちゃんだ。彼女は英語をまったく話さないので、今日は現地語の辞書が手放せなさそうである。「おっ、よく見ると先週までいた怪獣のような鳴き声をあげる“パウリーナ”が幼児室に移っている。これならもしかすると夜眠れるぞ!」と部屋に入ったそうそう叶わぬ期待を抱いてしまった。

さて、この写真の哺乳瓶、私はどうしてもどれが誰のもの覚えられないので、指示をもらいながら全ての子どもに哺乳瓶を吸わせた。子どもたちは一度哺乳瓶を口から離してしまうとしばらく放って置かれてしまうので、一生懸命吸い付いている。そう、ここの子どもたちは1歳未満の赤ちゃんだって一人でミルクを飲まなければいけないのである。

そうして、18時におしめを取り替え、18時半にモスキートネットをかぶせて寝かしつける。19時、私たちの夕食時間となる。その後は、マットに横になりながら朝まで赤ちゃんの様子を見る。今日は、子どもたちのモスキートネットに穴が開いているのが気になったので、持参したソーイングセットで修理をしていた。まさに、母ちゃん夜なべ状態(-。-)y-゜゜゜

21時にもう一度数名の赤ちゃんにミルクをあげ終ると、シスターが来て「外に大きな犬を放すので、これ以降は朝の6時まで部屋を出ないよう」と指示があり、用意してもらったモスキートネット付きマットにとりあえず横になってみた。

予想通り、赤ちゃんは代わる代わる夜泣きをするので、その度に何が原因かをチェックした。一人の赤ちゃんが下痢状態で、一夜だけでも3回、ベットシーツからなにから全てウンチまみれになって泣くので、最後は毛布に来るんで私の隣で寝かすことにした。大人が隣にいることは赤ちゃんにとって安心するのか、それ以降はとてもおとなしく朝を迎えた。

5時半、気づくとJanuaryは起きて子どもたちのモスキーとネットをはずして、ミルクを与えていた。私は急いでマットをしまい、飲み終わった子どもたちのおしめを取り替えた。そうして7時から一人ひとりを入浴させ、いつもの見慣れた風景に戻ったのであった。

このNight Workerのシフトは1週間交替。私は一晩が精一杯である。本当に、Workerの皆さんお疲れ様ですm(_ _)m

2009年9月5日土曜日

えいさあ

リロングエから車で40分ほどいったNamiteteというところに、かの有名なマドンナ(彼女の2人の養子はマラウイ人なのである)が出資したConsole Homeがある。この施設は、託児所とHIV/AIDSを患った方たちへの職業訓練所が併設されている。そして現在、4人の青年海外協力隊員(JOCV)がその施設で様々な活動を行っている。今日はその託児所に通う子供たちのお遊戯会があるとのことで、友人の家族らと一緒に遊びにいった。(旦那はまたまた10日ほど不在 (ToT)/~~ or\(^o^)/???) さて、本日のプログラムを見ると、子どもから大人まで、最後はみんなでフォークダンスと参加者までもが楽しめる歌や踊りが予定されていた。中には、子どもたちが日本の歌、「ともだちになるために」を日本語と現地語の両方で手話を交えて歌ってくれたものもあった。彼女たちにとってわけのわからない日本語の歌、本当に一生懸命練習を重ねてきたのだと思う。私は日本語だったこともあり、子どもたちが歌う歌詞が、ダイレクトに胸に飛び込んできて、とても感動してしまった。 そして、日本でも直接みたことのなかった沖縄の伝統的な踊り「えいさあ」をここマラウイで初めてみることができた。なぜマラウイで「えいさあ」なのかというと、以前この施設で活動していた青年海外協力隊員の中に沖縄出身者がおり、その方が衣裳のセットと太鼓を沖縄の協会に寄付してもらい、踊りを教えていたからである。その踊りと衣裳が、現在も活動として引き継がれていた。紫や赤の鮮やかな衣裳と肌の黒がマッチしていてとてもかっこよかった。 そして私は、マラウイで少しでも日本を感じると心が温かくなるのは、やっぱり日本が好きだからだろうなと改めて思うのであった。